世界中で人種差別反対のムーブメントが止まらない。
2020年5月25日アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで46歳の黒人男性が白人の警察官に喉を押さえつけられて死亡
• これに抗議するデモが世界各地で発生
• SNSでもハッシュタグをつけて拡散
• バンクシーはこの事件を描写した風刺画を発表
そして、ロンドンの公園では ”Black Lives Matter” とそこら中に描かれている。
何だか大変な騒ぎのようだ。
差別が悪い、とはよく言われるが、正直言って自分はその仕組みがよく分からない。
それは幸せなことなのだろう。
なぜなら東京で平凡に育った自分の回りにそのような差別はなかったからだ。
人に感情が生じるのには必ず理由があるのだと思う。
人種や肌の色や思想で差別をしてはいけない、と言われるが、その対象はカテゴリー化された集団だ。
そしてその集団に対して一定のイメージを持ち、人はステレオタイプに決めつける。
その決めつけがネガティブな要素を持ち、かつ攻撃的な場合に差別に繋がるのだろう。
しかし長い人生、都度都度人を見て、人の経歴を知って、「この人は大丈夫!」って判断するプロセスには無理がある。
これだけ多くの人がいて、しかも人々の移動は国内間にとどまらず、国の間も含めて年々加速している。
人を判断するのにそんなにたっぷりと時間を掛けることができるのは人生の中でも限られた出会いだけだろう。
学歴差別、と言われることもあるが、良い大学に入るには良い高校に行って、一生懸命勉強して。
良い高校に入るには小学生・中学生の時に一生懸命勉強して。
勉強することが良いとか悪いとかではなく、その時にやらなければいけないことをしっかりやり遂げた結果が高学歴に繋がる。
学校の勉強なんて役に立たない、なんて言い訳している人は、会社の業務も部活動もやらない理由を見つけて正当化しているイメージ・・・
あくまで個人的なイメージだけれど嫌なこと(勉強)でも目的をもって真摯に取り組める人は社会人になっても何事にも真摯に取り組めるはず。
そう思うことは自然ではないだろうか。
人は社会的生物だ。
必ずカテゴライズされてしまう。
「自分そのものを見て判断してくれ」と言われても、前述の通りその人を判断するのにそれだけの時間をかけられるだろうか。
出身地も学校も会社も、そこでの経験がその人を作り上げていく。
ステレオタイプに判断されるのは不愉快かもしれないが、一定しかたのないことではないだろうか。
地域によってイメージを持つ、国によってイメージを持つ、身体的特徴でイメージを持つ。
よく考えると日々の生活の中でこのような判断をしている場面は多数あると思う。
スーパーで食品を買うときに生産地で良しあしを判断していないだろうか。
東日本大震災・原発事故の後に福島の農作物は風評被害を受けた。
「差別しないで下さい」
と言っても人はイメージで判断してしまう。
スーパーで手に取った野菜を検査機を持ち出して放射線量を測る人はゼロだろう。
決めつけは良くない、福島の野菜が危ないという確認ができていないのに拒否するのは差別だ、として発ガンした場合、その人の危機管理能力がない、と判断されてしまうのではないだろうか。
外見が攻撃的な人、犯罪歴がある人、そういう人に対して警戒心を持たずに接して、暴行等を受けたらそれは自己責任だろうか。
平和主義を唱えるのであれば、そこまでの覚悟を持つべきだ。
逆のこともあるだろう。
東京や横浜、NY、ロンドンやパリはオシャレ、という決めつけをする人。
その人たちは本当にその町の実態を見て、知って判断しているのだろうか。
大部分はイメージで言っているのではないだろうか。
そしてそれを非難する人はいないが、持つ印象が異なるだけでイメージを持つまでの機序は差別と呼ばれているものと同じではないか。
人は良いイメージを持ってもらうと嬉しいと思う。
良いイメージをもってもらうためにはどうしたらよいか。
自分で何かできないだろうか。
自分が活躍してその地方、学校、会社の評判を上げる。
自分1人で無理ならば皆で協力して良い組織を作り上げるように頑張る。
あるいは悪い評判の出身であっても自分が努力して評判を覆す。
もちろん悪いイメージだけでその人に害を与えるのは論外だ。
しかし、悪いイメージから警戒されたり、あるいは悪い対応をされてしまうのは人として仕方のないことではないだろうか。
犯罪の多いカテゴリーの人と接するときにその確信が無いからといってフラットに接するのは危険ではないだろうか。
殺されたら?金を奪われたら?
警戒心を持たない結果がそのような惨劇をもたらした場合、自己責任とされる部分もあろうのではないだろうか。
今回、亡くなった人は強盗などの罪で服役したことがあるようだ。
また今回の事件は偽造紙幣をしようと疑いで警察に拘束され、また暴れた後に発生した惨劇とのこと。
結果、死に至ってしまった警察官の行為が正当化される理由はないが、これを黒人差別と一括りにすることこそが差別に感じる。
そして略奪や社会に混乱をもたらすデモは差別とは別次元で悪だ。